泉佐野観光ボランティア協会

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日本遺産

泉佐野市にある三つの日本遺産!

① 旅引付と二枚の絵図が伝える町―中世日根荘の風景―   
② 荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間―北前船寄港地・船主集落―
③ 里人とともに守り伝える修験道はじまりの地―葛城修験―
  これらのルーツをたどれば奈良時代、鎌倉時代、江戸時代までさかのぼることが
  でき、歴史遺産ともいえるその文化伝統は大切に守られ現代に息づいています。
  ぜひ一度! 泉佐野観光ボランティアガイドがご案内いたします。

泉佐野 3つの日本遺産

ストーリー1ー中世日根荘の風景ー

↓画像をクリックすると複数拡大表示

 泉佐野市の山間部に中世の荘園だった日根荘があります。
この地は800年昔に九条家(京都五摂家の一つ)によって成立し、荒野開発が行われ、
約300年間、荘園として存続しました。

 令和元年、この日根荘にまつわるストーリーが後世に語り継ぐべきものとして日本遺産に
認定されました。開発当時に作成された二枚の絵図と、九条家の当主、政基公によって
記された 旅引付 という日記の存在が日根荘のストーリーの貴重な文献資料として現存して
いるからです。

 二枚の絵図に描かれている神社やお堂、ため池や用水路などが 現存するものと驚くほど
一致しています。また旅引付は500年ほど前の日根荘の農民たちの生活の記録が満載です。

 つまり直接 荘園経営を行うべく京から下向して、この地で4年間を過ごした政基公の日記には経営の業務記録ばかりでなく村人たちの日々の出来事や暮らしぶりが詳細に記録されているのです。

 長い歴史の中で培われてきた文化や伝統が今も大切に受け継がれている―日本遺産
日根荘をぜひ訪れてみませんか?

2021年03月26日

ストーリー2ー北前船寄港地・船主集落ー

↓画像をクリックすると拡大表示

 

武士階級を頂点に身分制度が確立していた江戸時代。
 自分の才覚と努力で一攫千金を為す。アメリカンドリームならぬ北前船ドリーム!!!
一攫千金を夢見て荒波を越えた男たち。
ここ、さの町場は そんな男たちの夢が紡いだ異空間。一攫千金を果たした船主たちのホームグラウンドでした。

 さの町場は長者伝説が残る町。輩出した名だたる江戸の豪商たちー食野、唐金、矢倉、、、そして彼らの財力をバックに町は形成されていきました。武士以外のあらゆる職業の人々で成り立っていた町。
 元禄二年に江戸時代の儒学者、貝原益軒がその著書、「南遊紀行」で泉州、佐野を以下のように紹介しています。
「貝塚より一里あまり。民家千軒ありと云。富商多し。民家皆瓦葺きにて宅狭く町を
なさず。ただ家のみ多し。」
都市計画などとは無縁に 田んぼをつぶしては次々と家を建設していった。田んぼのあぜ道はそのまま道路になり、細く曲がりくねった道路に沿って大小の家々が雑然と並んで広がっていった町。現代の人が名付けて「天然迷宮都市」と呼ぶ。
 ガイドなしでは歩けない町。昔の町並みをほうふつとさせる名残が色濃く残っている
町です。

 
 北前船は大阪と蝦夷地(北海道)を日本海廻りで航海して、一航海で千両(6000万~1億円)の儲けになったそう。
 春3月に大阪を出港して、4月末~5月に北海道到着。8月ごろには北海道を出港して、
台風シーズンの前に帰阪する。寄港地ごとに物産を売買しながらの航海。ーー1年で一往復の航海。最高責任者は船頭で、船の運航から商品の売買、乗員の統率まですべてを統括していたそう。

 
 さの町場は食野家、唐金家、など北前船で財を成した豪商たちを中心に成立した町です。人の暮らしに必要なありとあらゆる職種の人たち(武士以外)が住んでいて、完全に町人の
町でした。

 佐野まち場の中を散策しながら、ほんの少し想像力を働かせると、思いがけず豪商たちの足音が聞こえてくるかもしれません。
2021年03月26日

ストーリー3ー葛城修験ー

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 大阪府、和歌山県、奈良県の間には和泉山脈と金剛山地があり、これらはL字型に
つながって府県境になっている。総延長112kmに及ぶこれらの峰々一帯は「葛城」と
呼ばれ、古来より神々が宿る山として人々の信仰を集めていた。葛城修験誕生の地で
ある。
 修験道の開祖、役行者は葛城の峰々に法華経28品を1品ずつ埋めて28カ所の経塚を
造った。これら経塚と滝や巨石、寺社や祠などを巡って行う修行や行場を総称して
「葛城修験」と呼ぶ。

 
 犬鳴山七宝瀧寺は役行者によって大和大峰山より6年早く開かれたため「元山上」と呼ばれている。そして葛城28宿修験根本道場である。役行者は7世紀中ごろ葛城山のふもとで
生まれた実在の人。葛城山系は役行者の最初の修行の地だった。

 一般的に修験道の修行は深く険しい山中で行われるものだが葛城修験の地はそれほど高い山ではなく、比較的集落に近いところということもあり修験者たちは地域の信仰にも深く
関わってきた。

 水の得にくいこの地域での農業は、水を得ることが最大の課題であった。この地域の人々は中世の時代からため池や用水路を建設して水の確保に力を注いできた。そしてそれらは現在も機能して田畑を潤している。
 しかし雨が降らず干ばつの時には神仏だけが頼みの綱となり、滝や神社で修験者たちに
よる雨乞いの祈祷が行われた。これは戦前まで行われていたそう。実際、【平安時代に全国的に大干ばつがあり、諸国の霊山、神社仏閣に雨乞い祈願のお触れが出た。結果、泉州一円にだけ
霊験あらたかに雨が降った】ということがあり、この時「犬鳴山よ、あっぱれなり」ということで、時の天皇、淳和帝より七宝瀧寺という名前を賜ったという歴史がある。犬鳴川渓流にある宝石のように美しい七つの滝にちなんで命名されたものである。
 このように葛城修験は、村の生活と結びつきが深く、村として修験者たちの受け入れ態勢が整っていたようです。

 犬鳴山七宝瀧寺は、明治初期における神仏分離政策の影響で、一時廃れ、施設なども荒廃しておりましたが、第二次大戦後に復活し、これを機に女性の修験者も受け入れるようになったそう。
現在は「一日修験体験コース」があり、修験の実体験をすることができます。(要予約)

2021年03月26日

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犬鳴山七宝龍寺

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